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「石原吉郎の詩」の読み方

現代詩は難解だと言われて長い時間が過ぎた。いまでもその類いの感想はよく聞くが、「難解」ではなくて「不可解」であると言った方がいいように思われてならない。石原吉郎の詩を読むときいつもそう思う。彼の詩はまごうかたなき「難解」なもので、と言うのは彼の詩の一行は平易な言葉で詰められており、次の行を読むときに食い違い・異和感を覚えて考えこんでしまうからだ。つまりその次の行「も」平易な言葉で敷き詰められているせいなのかもしれない。しかし石原吉郎の詩全体の在り方は厄介なようにみえても、何度も喰いさがって読むうちに、その食い違いに意味あることをわたしに伝えてくれる。不可解ではない石原詩。詩の良し悪しは(読後、直感で受けたことだが) 各行の論理的な不整合や破綻に近い危うさからやって来る感動ではないか、と思うからである。

石原吉郎、一九一五年生。三八年に東京外語大を卒業後三九年に召集され敗戦後、ソ連に長期間抑留された経験があるのは誰しもが知るところである。五三年に帰還するまでシベリアで酷い戦後の時間を過ごした。その直後から詩作を始めている。
石原吉郎の詩のタイトルはそっけないものが多く、詩の進みゆきのどこにそのタイトルが相当しているのかを考えながら読んでいくととてもスリリングであり、とても面白い。かえって読者自身の読みと感動の内実が試されると言ってもいいのではないか。作品に仕組まれた「内的な普遍性」(後述)を拠りどころとして、読者は確実に自分の問題として立ち会うはずだ。
彼の詩はとても厳しい。「位置」「条件」「馬と暴動」の三作品を読む。

位置

しずかな肩に
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である


「ならぶ」のだから整列しているのである。接する味方の誰かの肩よりも目前の敵がならんでいるほうが近い。接近の緊張が「静けさ」をかたちづくり、味方全員が<位置>を特定しようとしているのがわかる。接近の緊張はその位置の左右なのか分からないが、分からなくてはいけない。なぜなら位置がそこにいる全員の、ぎりぎりの存在の在り方として、たとえば恐怖に呼吸したり戦友と切迫した会話の位置のことを云うからである。接近していると云う緊張はいろいろな場面に想定されるけれども、死闘の前線によって醸し出されるのか、目前の敵兵の死体の匂いから醸し出されているのか分からない。ただならぬ緊張なのだから、まして位置は急いで特定しなくてはならぬ。たとえば、回避、脱走、突然の死、永遠の自己隠匿(狂気のこと)などなど。
それぞれの位置において敵も味方も、誰しもが自分にとって優れた姿勢を得られるならば、死の緊張のさなかに自分を確保し得るのだ。「わたしはとにかくここにいる」。位置の模索と確認と自覚は、かくして必死の課題になる。読者はそれを自分に理解するのである。(自分にという意味は、他人事ではないと言う意味だ。)
 最前線における緊張感に溢れた隊列と敵の面前という位置が詩的内省から純粋普遍性として、厳しく内的に立ち現われているのを読む。そして石原自身に留まらず、他の兵士(人間)に伝播していくのを止められないのも読まれるのである。この位置の確認ほど、平和に似ているいまの時代に相応しい行為は無いであろう。「わたしはどこにいるのか」。
反復する自己確認の行為として相応しいとわたしは思う。

条件
条件を出す 蝙蝠の耳から
落日の噴水まで
条件によって
おれたちは起き伏しし
条件によって
一挙に掃蕩されるが
最も苛酷な条件は
なおひとつあり そして
ひとつあるだけだ
おれに求めて得られぬもの
鼻のような耳
手のような足
条件のなかであつく
息づいているこの日と
さらにそのつぎの日のために
だから おれたちは
立ちどまるのだ
血のように 不意に
頬と空とへのぼってくる
あついかがやいたものへ
懸命にかたむきながら


 ここでは<範囲>の問題が詩に歌われている。<範囲>すなわち存在する条件は生き延び得る環境のことだ。しかもその環境は「おれたち」が創ったものではなく与えられたものである。哺乳類と鳥の両義的な蝙蝠と、深まる夕景の哀愁味に対して、ほとばしる朝の清廉のように、元気な噴水の両義性が、その条件の範囲の広さを物語っているようだ。いかにも条件は幅広く自由な印象はあるのだがそうではない。
条件はとにかく必然的に「一個」であってそれ以外に存在しない。その厳しく過酷な<範囲>のなかで「おれたち」は生き延び得ることを知っているという読みに至る。

馬と暴動
われらのうちを
二頭の馬がはしるとき
二頭の間隙を
一頭の馬がはしる
われらが暴動におもむくとき
われらは その
一頭の馬とともにはしる
われらと暴動におもむくのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない
ゆえにわれらがたちどまるとき
われらをそとへ
かけぬけるのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない
われらのうちを
二人の盗賊がはしるとき
二人の間隙を
一人の盗賊がはしる
われらのうちを
ふたつの空洞がはしるとき
ふたつの間隙を
さらにひとつの空洞がはしる
われらと暴動におもむくのは
その最後の盗賊と
その最後の空洞である


 この詩で石原吉郎は「前後」を下敷きに、<戦場>に生きる精神の在りかを生々しく表現した。想像を絶する<戦場>の「死の壁ぎわと死そのもの」の極小の狭間における彼の抵抗は、「暴動」と「はしる」の二つの言葉に明らかである。ここで彼が訴えている主題は、ふたつのあいだのひとつ、という設定からほとばしり出る、「前へ」が「後ろへ」と並置される意趣のことではないだろうか。「はしる」という動作に変わりはないのだから、方向のことだとわたしは思う。
どういうことかと言うと、前へ絶対に行きたくないが、さりとて後退の許されない限界的な状況において、人の取りうる最後の抵抗は、ふたつのあいだのひとつの間隙に、みっつめの一頭の馬、一人の盗賊、一つの空洞という表象を得て行動することなのである。
「前後にはしる」と矛盾する表現に、唯一自分(石原吉郎)に許されている方向、前後を超越する状態が浮かび、はしる今の自分の生存に架けるのである。もしも暴動に賭けた意図なるものが失われる(すなわち「空洞の出現」)となっても、その超越的な状態を消さずに、詩人は架けることを続けていくだろう。この考え方は収容所の苛酷な拘禁期と解放期(恢復期)にも顕著に見られ、石原吉郎の冷静な分析から「両者ははっきりと別の方向をたどる。肉体は正確に反応する。」(「強制された日常から」より)と結論された。つまり、解放=自由がもうそこにあるのに“苦痛”はまだ後者において保留されている、という心身が前後交錯している状態を指している、と石原吉郎は言う。“苦痛”とは、人間として在ることを断念したことから恢復へいたる道程の、石原独特の表現である
「馬と暴動」は疾駆する馬からはじまり、とたんに凶悪な盗賊に変化し、立ち止まってなだれ落ちていく表象としての空洞に終わる。疾駆する馬の快走は、逃亡する盗っ人の焦慮と絶望は、わたしの空洞の未来が見られることは、それは恐怖である。暴動に、見えづらい未来の陰影を見ているように、「わたし」は、行ったり来たりの反復と、突然の「はしる」の停止による恐怖を感じているように思える。つまり、どこにも「わたし」が存在し得ぬと云う恐怖である。
この作品は、「位置」と「条件」の二作品と併せて読むと、より読解に効果的だと思う。
見えぬ生存の「位置」を求め、闇に埋もれる生存の「条件」を探りあて、そして暴動(己れの超克)に向かっていく悪あがきを認めて詩集を閉じる時、わたしは作者にそっくりのわたしをそこに見いだしている。

石原吉郎の収容所体験が世に知られなかったら、彼の詩は「不可解な詩」に終わりかねなかった。違うだろうか? 彼の詩は、そのこと事実の記憶・印象・感動から読みはじめられるものとして認めてはならない。読む側それぞれに彼の記憶を自分の体験に置き換えることによりはじめて、石原吉郎の詩の感想に、自己表現を付けながらつなげて読むことができるのである。
内面に深く刻印された、地獄と言えるほどの収容所体験は、詩において高い抽象度を帯びる。詩人の大野信の、彼は一つの「抽象の魔であった」(「初源からみる石原吉郎」)という批評に結びつくのはごくごく自然なことだと思われる。
一九六四年に発表されたこの詩集で、石原吉郎は抑留体験から、ありとあらゆる世界内の事物に「内的な普遍性」を書き出した。しかしながら純粋なものとして彼に苛酷な体験が決定的に固着したとき(石原吉郎という人の体験に与ることなので仕方が無いのだが)「内的な普遍性」は彼個人の経験からの表現基盤である一方、詩的意味を与える限界を持つことになったと思う。読者は彼の体験を彼のエッセイを読むことで知り、読者にとって彼の詩が体験の中に封じられているように錯覚しかねない。
「内的な普遍性」は彼に内属する剥がしようもない「個人的」な普遍性のことである。とすると、書いても書いても、それは、作品を構成はするが作品としての結末を得ないままに、詩集の中で漂っているように思われるのである。石原吉郎の詩の世界は個別的な問題でありながら普遍性を持っているから、結末の無い作品に放り出されているように、強く印象づけられ、わたしは彼の詩を読んでいるとどうしてもその結論に突きあたるのである。
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“危機”の詩人、北村太郎

夜/ピアノをたたく人は/空に浮いている/だれかの腕が/彼を落ちないようにしているのだ
愛を知ろうとする人は/かぎりなく落ちつづけている  

 (『小詩集』、荒地グループ編、「詩と詩論」所収)

空にピアノを弾く人の墜落や、永遠の愛なるものは、或る日失われてしまうのは、とりたてておかしいことではない。その脅威は隠されているだけなので、詩人の視線はその隠匿をきちんと見定めている確かさに満ちている。だから詩は緊張度が高いのだ。
「荒地」の詩人、北村太郎(1922-1992)は、「危機の詩人」―詩作方法にとらわれず「死」を、あるいは死にいたるかもしれない「突然な危機」を抱えた詩人だ。
若い頃から熟年に至るまでの過去に発表した詩集をいったんバラバラにしてまとめたこの新編(1981)に流れるひとつの想念がそうだよ、と言いたげに彼は作った(1981)。この詩集は九つの章だてに再編成されたもので、したがって再編詩集は時間の差異を超越して詩人に一貫して貫ぬか不変の、個有の詩想を示すものだと知れる。
第三章”知らない自分” に収められた『朝の鏡』の書きだし。

朝の水が一滴、ほそい剃刀の/刃のうえに光って、落ちる―それが/一生というものか。不思議だ/なぜ、ぼくは生きていられるのか。曇り日の/海を一日中、見つめているような/眼をして、人生の半ばを過ぎた。

この詩句は最後にまた登場し、いくつかの文、例えば「一個の死体となること、それはいけるイマージュ」とか「(おはよう女よ、くちなしの匂いよ) 積極的な人生観もシガーの灰のように無力だ。おはよう、臨終の悪臭よ、よく働く陽気な男たちよ」とか、どこかに倦怠と悲感と絶望感に満ちた詩文を挟みこむ構成を持つ。挟み込まれる直前に置かれた次の句はなまなましい詩人の視線が見出されている。

ぼくは歯をみがき、ていねいに石鹸で/手を洗い、鏡をのぞきこむ

こうした構成で作品背後に危機が隠匿されている。
続く作品『怒りの構造』も似ており、「ことばを捉えようとして/声がこみあげる/息が詰まり/たとえばテーブルの瓶が/時間となる/窓の外/シャツがはためき/街のかたちがふしぎにととのい」という具合に書かれている。
なぜ危機なのか。突然の危機。すべての存在の瞬間に意味を問うている危うい自分であるから作者には、外部が危機に満ち溢れ誰しもが予感する「発狂寸前の世界」を見つめていると言えそうだ。
(終り)
文字色

マグリットの「盗聴の部屋」

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盗聴している者が潜む部屋なのか、あるいはその逆で盗聴されている部屋なのか、定かでないが、いずれにせよ、部屋を「満たす」ように巨大な緑色の林檎(?)がデンと存在している。観る人は、いろいろと考えて、あらためて眺め結論するのは、盗聴者とはこの巨きな林檎ではないかという逸話を作るのだ。とすると、いったい何を、この林檎は盗聴するのかと言う疑問が彼にひとつわくのだが、答えは意外に簡単なもので、林檎が自らの「充足を盗み聞き」しているということなのだ。
或る部屋を十分に満たしているということ、林檎はその大きさにおいて身動きがままならず「内部で」いったい、どうなっているのか、と植物用語で自問しているのに違いない。自らの内部の声を林檎はジッと聞いている。つまり声にならぬ独り言を彼は観ているのである。
「出られない」。この植物用語はまさに悲惨であると言うしかない。

DSCN0023.jpg

これはもう「盗聴」じゃなくて他人の家の「盗撮」だな。(私が撮りました)

ご挨拶

各位。
長い間閉室しておりました。
理由は所属する同人誌の数が増えて、投稿に忙しくなったためと、そのため読書の幅が狭くなってせいなのでした。

その間石原吉郎に関する論考その他書いてきましたが、そろそろライフワークの一つとして「幸田露伴」について書いてみようかなと思い立ちました。

少しずつではありますが、このブログに書いていこうと考えています。

石原吉郎の『禮節』 (1)

3冊目の詩集『禮節』は1974年1月に刊行された。ほぼ同時期に『断念としての海』という美しいエッセイ集を出している。

素足

荘重に とのねがいにより 素足はそのま
まに 素足へと伝えられた。地名は踏まぬ約束
らより 日は墜ち およそ日はのぼった。か
つその踵へまつわって 円光冠はしたがった
加えるものがあるとすれば あるとき 無縁
にふりかえる目へ かがやいて素足が 遠ざ
かったことだ


この詩の場合、鍵になる点は「荘重」という願いならぬ「原則」である。おごそかに重々しく誰かが定めた原則にしたがって、人は靴を脱いで大地という、大いなる自然に触れて自然に歩く、生き抜く。地名(自身の所在)に拘らないという約束つまり条件にしたがって生き抜く、歩く。原則にはいくつもの約束、条件を派生するが、それがなければ主体は失われるに違いない。あるいはこうだ、主体はそこから始まる。
ただし原則を指定した誰かがこの世ならぬ者である場合において主体は確保される。ホトケの後光が人の踵にあてられる時とき素足は神々しい輝きを跳ね返し、関係を迫ろうとする周辺の視線を拒絶するのだ。そのように原則によって裸の足を持つ人は、いかなる所在を得ることが可能というものである。
遠ざかり接近する人々をしり目に、そして冷たい自然なる土に触れている感触を掴みながら、まざまざとその人にそう確信させるに違いない。素足はアナキズムを超越するのである。

すあし
プロフィール

荻野央

Author:荻野央
毎日読書して菜園に水をやり恋愛ドラマを見ます。小説を書いて詩を夢想して批評的感想に耽るそんな毎日。
掲載記事に意見がありましたら、sp2m4w79@yahoo.co.jpまでご送信ください。お待ちしています。

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